やれやれだぜ...

伊達直人

2012年08月19日 08:31

みすてないでーッ ヒィィィィィ 孤独だよーっ

...とでも、キャンプに来ても顕在化してしまうものなのだろうか、と思わざるを得ないことが多い。

広いキャンプ場で、わざわざすぐ隣り、会話が漏れ聞こえて鬱陶しいだろうなという至近距離にテントを張るケースとか。

6月の積丹で、駐車場でこんなことがあった。



まわりに車は1台もない。広い広い駐車場。なのに、べったり横付けして駐められた。

なぜ?どうしてそんな発想をするのか理解できない。

ばーんとドアをあけて、がさがさと荷物を持って、差し障りなく歩き回りたくはないのか?
なぜ、隣の車を気にしなければならず、行動に制限がかかるような、駐車の場所を選ぶのか?

この後、僕は車のドアを開けることにすごく障りを感じて、いなくなるまで近づかなかった。
ポルシェのドアはふにゃーっと全開に開いてしまうので、隣の車にすぐに触れてしまいそうになるため、半開の状態で留めるのは、意識的な作業なのだから。
そんなことを、わざわざ後から来た他人に強いられたくはない。

がーんとドアをぶつけてもよかったかな。鉄板1mmの質量は強靱なんだぞ。

こういうことをする人は、根本的に自由をわかっていないのだ思う。
不自由な生活を無自覚に送ることに鈍磨し、もはや自由への希求はないのだろう。
自由に振る舞っているつもりかもしれないが、他人の自由も侵すということに対しても、鈍感になっているのだろう。

そういえば以前、十勝エコロジーパークでも、似たような光景、似たような事件があった。

フリーサイトで“集落”から離れて焚き火場の前にテントを張っていた。
夜に焚き火をしていると、幼児を抱いた人、子どもの手をひいた人たちが、黙って焚き火に近づいてきた。
「焚き火だね―、燃えてるんだよ―」などと口にしながら。その焚き火を行っている僕には一言も何も口にしない。
他人の自由に踏み込んでしまっていても、一顧だにしない。それは、自分たちの世界で完結しているから。子どもに焚き火を見せ、そうした日常ではない、キャンプならではの経験ができたことで、彼らの世界は幸福感に包まれているのだから、完結である。
「おまえ、何なんだ!?」と距離を越えられた僕の意識は、問題として感知されていない。
広い広いフリーサイトで、ガイロープがくっつきあうすれすれの距離で並んで張られたテント集落から、焚き火を訪れる人々には、僕の自由は全く尊重されないのだった。

僕は広い空間で屹立する自由を謳歌したい。そのためには、他人の自由も尊重しよう。お互いの自由を侵さないように。


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