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Posted by naturum at

2013年03月20日

「青いターバンの少女」とは何なのか

フェルメールの絵については、ファンらが既に語り尽くしていると思うので、手垢のついたようなことは今更述べたくはない。
また、学際的な本は読んでいないので、細部にまで行き届かせるつもりもない。
なぜ描かれたか、モデルは誰なのかは、映画で推理されている通りで、十分納得できるので、まああんな感じじゃないだろうか。
それより、どんな意味を持って描かれたのか、なぜグッとくるのか、が何年も気になって仕方ない。



実際にあの「青いターバンの少女」を、他のオランダ絵画が展示されている中で、あのサイズの絵を見たことで、ちょっと考えが変わってきたこともある。
この2か月ずっと、あれは何なのだろう?と思いを巡らせていたのだが、そろそろまとめておきたい。

サイズ
でかい。少女単体のバストアップという、珍しい題材の割に、結構大きい画面だ。
ちょっとした衝撃だった。実際のサイズに驚いた作品は、今まで2つある。
クリムトの「海蛇」が半紙のようなサイズだったのは、逆に宝飾品のような輝きを溢れさせていた。ダリの「燃えるキリン」はハガキより一回り大きいだけの小品だったが、ふと思いついたイメージをまとめた率意のような瑞々しさと、意外な奥行きを感じた。
この絵は、ダヴィンチが生涯持ち歩いて筆を入れ続けた「モナリザ」と、似たようなサイズなのである。
もしかして、画家がふと肖像画を描こうとしたときに、手にしたくなる画布のサイズなのではないか。



同じく神戸に展示されたハルスの肖像画は、ほとんどが小振りだ。依頼品なわけだから、顔さえよくわかればいいので依頼主たちは大きなサイズを欲していなかったのだろう。
この絵は、依頼品ではないのではないだろうか。

結 構
これがまず珍しく、日本人の心をくすぐったと思う。“少女単体のバストアップ”なのだが、そういう美人画は、日本画で我々は見慣れているのである。
この絵は、宗教的なモチーフや、暗喩の物品を全く含んでいない、我々日本人に馴染みのある純粋な美人画の範疇に入っているのである。
しかも正面から捉えたのではなく、ちょっと横からでひねりが入っている。これによってモデルに、アジア人好みのS字曲線のたわみも発生している。“柳腰”を連想させるそのくねりが、我々の好みと合ったのだろう。

しかも背景がない。あれほど緻密に室内を描き込むフェルメールにしては、全く触れていないのである。その画面構成は、これまた日本画を通して、我々には馴染みの画面なのである。
西洋画の技術で描かれた日本画、といった雰囲気が、親しみやすかったのだろう。

竹久夢二の絵とも通じる雰囲気がある。首をかしげたような構図もそうだが、ちょっと開いた唇も。
思わせぶりに、何か表情を持つ口元が、この絵で最も目を惹くのだが、夢二もまた、多くの絵でちょっとつぶやくような描き方をしている。そうした“何気ない一瞬”のような雰囲気がいいのだろう。
さらに、我が国はアニメ・マンガの文化の国である。こうした“少女単体のバストアップ”という構図のイラストは、ますます見慣れている構図なのだ。大正の竹久夢二から現代に至るまで、知らず知らずのうちに、我々はこうした構図の絵に安心感が作られてきたのかもしれない。

この構図の肖像画を、フェルメールは描いている。それはおそらく依頼を受けた作品のようで、衣装や色彩、小道具は、肖像画として驚くことのない範囲に収まったものであり、どこかの美術館で見かけても、よくわからずに通り過ぎてしまうような無難なものである。

色 彩
ターバンの青と肩衣の黄。この組み合わせは、かなりきれいである。ラピスラズリの輝きであれば、当時は目の覚めるようなコントラストだっただろう。
だが、17世紀半ばのオランダで、そんな鮮やかな色彩に彩られた肖像画など、作法から外れていただろう。
何より、フェルメールの描いた物の中で、そんな大胆かつ少ない色彩の作品は、これ一つしかない。
いや、フェルメール作品においては、黄色や青い衣服は後半によく見られ、おそらく本人の好む色彩だったのだと思う(誰も言っていないが)。
だが、この肖像画での大量の青と黄の比率は、当時としては画期的、野心的な画面である。

マネの「ピッコロを吹く少年」に、何か通じるものがある。
あの作品は、灰色の背景、黒い上着の中で、赤いパンタロンが空間を締めている、赤が重要な比率の色彩だ。意外に大きな作品、間近で見ると意外にラフなタッチ、というのも似ている。
マネは、この少女の絵を見ているのではないだろうか。

4世紀北魏時代の石窟芸術。青と赤に彩られた眷属が飛翔する天井は、躍動に満ちている。荒々しいのだが、その躍動する様式美は、その後中国にはついに顕れることがなかった。
S字にたわむ肉体を彩る2色のコントラストは、ここにも通じるものを感じる。洋の東西で、芸術の感性は同じ美を嗅ぎ当てるのだろうか。

青と黄、この色の組み合わせ、画面を占める色使いは、フェルメールが画家として試してみたいと思っていたのではないか?

衣 装
中東のエキゾチックな風俗、というのはよくあるモチーフだ。この少女の衣装は、もちろんオランダ風ではない。ターバンや肩衣風の布の纏い方など、アジア的である。
オランダ人には相当にエキゾチックだが、この胸元の布の襞加減が、和服の襟元のようでこれまた日本人には違和感がないというのも、親しみやすさではないだろうか。

なぜこんな衣装を選んだのか?
青と黄を大きく生かす布の使い方として、この衣装はうってつけだと思う。顧客であろう、オランダ中流子女の服装にはあり得ない色彩だ。
今一つ踏み込んで言えば、“コスプレ”の肖像画を描きたかったのではないだろうか?
当時の画家たちは、様々な小道具、大道具を、制作する絵画に描き込む資料として手元に集めていた。「こんな衣装も私の所にありますよ、こんな絵も描けますよ」という意味があったのではないだろうか?

モデル
モデルの体といえば、顔しかないのだが、大きな画面の割には意外に描き込んでいない。何となくのっぺりとした印象である。乳製品をふんだんに摂取しているオランダ人のごつごつとした立体感がない。
そのバタ臭くなくこざっぱりとしたところが、妙に無国籍で、我々の嗜好にすんなりと入ってくるのである。
だが、なぜ仕上げを施さなかったのか?

ゴッホの「星空のカフェ」も、青と黄の対比が際立つ、もうそのためのモチーフなのではないかという作品である。実際に見たとき、その色の際立つところ以外は、仕上げを途中でやめてしまったかのようなところがあって驚いた。
あの煌々と灯りのともるカフェの向かいの建物は、カンヴァスが地のままのぞいているところもあったのだ。描きたいものがたくさんあったゴッホだから、よほど気がせいていたのだろう。



対象物を、光を緻密に見るフェルメールが、急いでいたとは思えない。描いている途中で、あの映画のようにモデルがいなくなってしまったのかもしれない。
モデルがいなくなれば困りそうなものだが、フェルメールは困らなかったのだろうか?モデルなしでも作品としてしまう、この絵の存在価値は、フェルメールにとって何だろう?


2作目の存在

同じ構図の少女の肖像画が、この作品から数年後に描かれている。
その際、手元にあったこの作品を、顧客に見本として見せたことは想像に難くない。

フェルメールは寡作であり、手間のかかる作品製作より、もっと量産を姑たちから望まれていた。
緻密に背景を描き込むような作品より、ハルスのように、ささっと顔をアップに描ける画家としての注文も取ろうとしていたのではないだろうか?


まとめ
この「青いターバンの少女」は、依頼を受けたものではない、習作、見本である。
大量生産のできる構図、背景の省略を狙った習作である。
こんな面白いコスプレで、ハルス以上に鮮やかな色彩で描くことができることを見せるための、見本である。
従って、依頼品でもないのでモデルに意味はない。
だが、画家としてのフェルメールの、描きたい物を描いた、当時としては珍しい大胆な野心作である。


蛇 足
そこで、あの映画の、使用人の娘とフェルメールの関係の推測が秀逸になってくるのだ。



あの娘の示唆で、制作中の作品の構図、色使いに、今までにないものが生まれたことを実感したフェルメール。
その関係は、貴重なラピスラズリを磨らせるほどに濃密になっていく。画家として、感性が澄んでいく。
しかし常識人たる家長の振る舞いを求める姑、嫁。彼女らにとって、絵画は芸術ではなく、売買の対象たる職人による工芸品である。
おそらくは、この娘は追い出されるだろう。それを予見したフェルメールは、かねて試してみたかった構図、色彩の習作を、彼女をモデルに描くことに決めた。
ラピスラズリは、彼女ゆかりの色でもある。
若い娘との距離の近さを恐れた姑たちによって、彼女は作品の完成を見ることなく、暇をだされる。
そしてフェルメールは、以後、職人としての制作、家業の担い手(金貸しの取り立て)としての働きに、埋もれていったのだろう。

  

Posted by 伊達直人 at 22:28Comments(0)旅行